芸術は誰のもの?


最近ふと考えることがあります。例えば10本映画を観て10本楽しめる人と3本楽しめる人だったら10本楽しめる方がお得なんじゃないだろうか?

どういうことかと言うと、僕は映画が好きで、なおかつミーハーなので流行りの映画は一通り見るんですが、どこか批評的な目で観ていて純粋に映画を楽しめているのだろうか?と思うときがあるのです。どこか粗探しをしてしまっていると言いますか…。

どういった目で作品を受け止めるのが正解なのでしょうか?


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そんな折、ネットでタイトルを見掛けて気になっていた『ピカソは本当に偉いのか?』という本を読みました。

『アヴィニョンの娘たち』(「キュビスム(立体派)」と呼ばれる、20世紀初頭の前衛的な絵画手法の出発点となった作品とされている)に代表されるような難解な絵を目の前にしたとき、多くの人が感じるであろう以下の疑問について答えを提示しています。

1、この絵は本当に美しいのか?(どこが上手いのか?)
2、見る者にそう思わせる絵が、どうして偉大な芸術とされるのか?
3、かりに偉大な芸術としても、その絵にどうしてあれほどの高値がつくのか?
4、ピカソの絵であれば、誰でも描けるのではないか?
5、そういう絵を偉大とする芸術というものは、どこかおかしいのではないか?
6、そういう芸術にあれほど高値をつける市場も、どこかおかしいのではないか?

なんとなく誰もが思うことだけど、それを言ってしまうとセンスが無いと思われるから言わないであろうことを代弁してもらえた気持ちよさがあります。僕自身、そう言った難解な絵が高く評価され、高値で取引されるに至った背景については良く知りませんでした。そして、美術に関する高い知識を持った人だけが理解できる絵に果たして本当に価値があるのだろうか?と考えることもありました。そのような疑問を持っている人にとっては最良の本だと思います。

上記のような疑問は、映画についても同じで、例えば、アカデミー賞を受賞した作品が、全部が全部誰もが楽しめる作品かと言うとそうでもないと思います。もっと大衆向けで面白い作品があるんじゃないか、と。とは言いつつ、冒頭で述べたようにそう言った大衆向けの作品に対して、斜めに見てしまう自分がいたりします。

作り手側の立場に立ったときはどうでしょうか。僕は漫画を描いています。そしてそれを仕事にしています。プロになる前は、「分かる人にだけ分かればいい」という意識が強かった気がします。大衆向けの分かりやすい漫画はダサいとすら思っていました。今は、より多くの人に面白いと思ってもらいたいし、そういった漫画に価値があると思っています。

では、ピカソはどういった立場で、誰に向けて作品を作っていたのでしょうか?

その疑問について考える前に現代の各分野のクリエイターの発言で気になったものを紹介してみようと思います。

 

ライムスター宇多丸さん
宇多丸さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』にかつて「ザ・シネマハスラー」という映画批評のコーナーがありました(現在は「ムービーウォッチメン」)。そのコーナーにおいて品川ヒロシ監督の「サンブンノイチ」の回がありました。その中で、以下のような発言があります。要約しています。

窪塚洋介君演じるおっかないギャングのボスがストーリーとは直接関係なくこういうことを話し出す。

「お前ら映画好きは、なぜか自分以外の人間には映画を観る目が無いと思ってる。自分では1本だって1分だって1秒だって撮ったことなんか無いクセに。やれカット割がどうだ役者がどうだ語るんだ。そのクセ他人の映画論は右から左だ。俺はたまにしか映画は観ねぇ。年に2、3本だ。好きな映画も「バック・トュ・ザ・フューチャー」だ。「バック・トュ・ザ・フューチャー?面白いけど何かベタじゃない?」とか言う奴らが俺は大嫌いだ!」

仮に品川さんの思っていることをここにブチ込んだのだとしたら、端的に言って浅はかに過ぎる。うるせぇ映画好きと言われるような人達は、ベタだから、大衆にウケている映画だからという理由で馬鹿にするということは無いと思う。

窪塚君はたまにしか映画は観ない、素朴な観客代表として文句を言っているはずなのにいつのまにか作り手側の心情に置き換わっちゃってる。作り手の気持ちをなぜか素朴な観客代表に代弁させてる。お前ら自称映画好き以外の観客は俺を支持してるっていう構図をここで勝手に作ってる。俺たち作る人、だまって喜ぶ人、この2者がいれば映画っていうのはそれでいいと言っている。それは間違ってるし、あんまり良い考え方じゃない。

僕ら観客の大半は、まさしく1本も1分も1秒だって映画を撮ったことが無い人達ばっかり。そしてプロは、カット割だ役者のどうこうだっていうのはそういう人達を喜ばせるために努力してるんじゃないの?だからそこは関係無くない。今は客は目が肥えてる。カット割だなんだっていうのは別に映画マニア、映画評論家だけが気にすることじゃない。客は馬鹿でいいんだって言っている。でもそんなことはない。客は馬鹿じゃないって思って作品作って下さいよ。それが嫌ならプロ同士で映画の見せ合いっ子でもしててよ、ってことじゃん。

宇多丸さんとしては、うるさい観客も含めて楽しませて欲しいというスタンスのようです。

 

新海誠さん
映画『君の名は。』のパンフレットに載っている、監督のインタビューからの抜粋です。

とにかく「この映画は楽しいですよ」と堂々と言えるものにしたかった。誰もが楽しめるようなエンターテインメントを作りたいという思いはずっと心の中にあったんです。それが作品ごとにスタッフや協力してくれる方も増えてきて、自分自身の作劇の力も広がってきている実感も持てるようになったことで、いよいよできるんじゃなかかと思えたんです。今だったら、ど真ん中のエンターテインメントが作れるんじゃないか、と。

今回は、お客さんに対するサービスを徹底して意識した作品でもあるんです。サービスというと媚びへつらっているように受け取られてしまうかもしれませんが、実はとても技術や体力が必要なことでもあります。ここで笑ってもらうために、泣いてもらうために、もう一息カットや演出を積み上げる、サービスというのはそういう行為です。

大衆向けエンターテインメントを目指して徹底して作り込んだ。そして、結果として大衆にウケたという好例だと思います。

 

スピードワゴン小沢さん
AbemaTVの『スピードワゴンの月曜The NIGHT』という番組で、女芸人の悩み相談を聞くという回がありました。その中での発言です。要約しています。

HENHEN事変 アイドル鳥越さん「ネタ見せで作家さんに厳しいことを言われちゃったんです。どうしても認められたいんですけどここから挽回するにはどうしたらいいんだろうっていう悩みです。」

小沢さん「おれ等だってネタ見せで直せとか言われたけど直したことあんまりない。だってさ、直せって言われて直してスベッたとするじゃん。(作家さんは)責任取ってくれないじゃん。自分がこれをやりたいならやるべきだよね。」

ハリウリサさん「同じネタをずっとやり続けてたらファンに飽きられてしまったんです。」

小沢さん「ファンのためにネタ作ってんだ?これやりゃウケるんじゃねーかなって作ると大体ウケないよ。結局自分がやりたいやつやらないとウケないよね。」

ファンがどう思うかよりも、自分がやりたいものをやるべきという考え方です。

 

大友良英さん
爆笑問題の太田さんとくりぃむしちゅーの上田さん出演の『太田と上田』という番組で太田さんが作曲家の新垣隆さんについて話していました。太田さんは『糸』というアルバムに収録された、新垣さんが本当にやりたい音楽だという曲を聴いたところ、いわゆる現代音楽でその良さが全く分からなかったそうです。新垣氏に言わせれば、佐村河内さんに書いたような曲は音楽を知っている人であれば誰でも書けると言います。太田さんはむしろ、そちらの曲(誰でも書ける曲)の方が良いと感じたそうです。その『糸』というアルバムに参加しているアーティストの中に音楽家の大友良英さんという方がいて、やはり曲の良さが理解できなかったけれど、一方でNHKのドラマ「あまちゃん」のテーマ曲の作曲者であることにとまどったそうです。そこで大友さんに実際に会って話を聞いてみるという回がありました。その時の発言です。要約してます。

大友さんの『糸』収録曲を聴いた後━━━

上田さん「お客さんって曲が終わった瞬間に「お~良かった~」みたいになるんですか?」

大友さん「そこがマジックでさ…こんなの工事現場の音みたいじゃん、ハッキリ言って。工事現場のオッサンが「ガァー」ってやった音に「いい音楽だ」って言わないでしょ。だけど全く同じ音を例えばサントリーホールでジョン・ケージ作曲だったら終わった後に「あぁ~いい音楽」って言う人いると思う。音楽って音楽だけで成り立ってると思ってなくてそこに色んな物語が付いたり、例えば見てる人はサントリーホールに行くっていう、5000円のチケットを買って良い音楽を聴きに行くって(いう物語がある)。」

太田さん「でも5000円のチケット買ってサントリーホール行ってこれ聞かされたらさ、「金返せ!コノヤロウ!」って…」

大友さん「でもさ、太田さんには理解出来なくても、この音楽が本当に良いと思っている人達が世界中に500人くらいいるんだよ。」

太田さん「我々お笑いをやっていると分かり易いんですよ。客が笑うか笑わないかですから。それだけなんですよ、価値観は。新しいギャグをやろうがウケなきゃだめ。つまり音楽で言えば、大衆が喜ぶ音楽が、我々お笑いにとってみれば、みんなが分かり易くみんながノれる音楽しかやってないわけですよ、我々は。」

上田さん「あまちゃんみたいな音楽は作ろうと思えば作れるんですか?」

大友さん「両方好きで、元々クレージーキャッツが死ぬ程好きだったんですよ。あーゆーのも大好きだし、高校生の頃にアングラも大好きになって一時はアングラだけにハマった時期もある。歌謡曲もロックもジャズも大好き。」

太田さん「俺が(新垣さんに対して)引っかかったのは、あの人があれ(佐村河内さんの曲)は楽で、本当に作りたいのはどういう音楽なんだろうって。そしたらこれ(『糸』)かよって。これを本気でやりたいの?っていうさ。」

大友さん「オーケストラの曲を書くのは簡単なことではないから(佐村河内さんの曲を)作っていた時に喜びはあったと思う。あの方向をずっと極めて行くと、和音とかがかなり崩壊していくような世界からここ(『糸』)まで行くんですよ。」

上田さん「ピカソは普通の絵を描いてもうまいじゃないですか。でもキュビスムの方に行ったりして理解できない絵を描いたりするわけでしょ?基礎があるからこそこっちの方にも行けるのかなって話してたんですよ。」

太田さん「俺が引っかかったのは、佐村河内騒動の時に音楽評論家みたいな人が色んなコメントをしていて、現代音楽にとっては、協和音の音楽はパターンだからやっていても面白くとも何ともないんだと。大友さんのことも書かれてた。」

大友さん「(記事を書いた人には)すごい失礼だけど幼稚じゃないですか。協和音が幼稚で、不協和音が高級かってそんなのあるわけないじゃないですか。ふざけんなよって話だよ。」

太田さん「俺昔演劇やってたんですよ。小劇団とかアングラ劇団みたいなの。日芸の演劇科だったからそういったアングラな世界に被れた奴らがいっぱいいたわけ。そんなことよりテレビでみんなが分かることをやってた方がいいじゃないかってことで。なおかつ、お笑いが一番好きなのは、本当にウケるかウケないかしかないからお笑いは。だから分かりやすくていいんだけど、そういうの(アングラなもの)がヤになっちゃうんだよね。価値観がどこにでもある状態。」

大友さん「価値観がどこにでもあっちゃダメっすか?」

太田さん「逃げに使う場合があるじゃない。これは君たちは分からないものだけど良いものなんだって。テレビでもなんでもそうだけど視聴率が落ちたらいくら良い番組やってましたって言ってもダメなんだから。」

大友さんは元々メジャーなものもアングラなものも好きだった。だからどちらの音楽もやっている。太田さんは誰もが分かるものを作りたい、という考えのようです。

 

ではピカソはどうだったのか?

僕が『ピカソは本当に偉いのか?』を読んで興味深かったのは「美術館」という存在についてです。そしてそこにピカソの絵の難解さの理由を紐解くヒントがあるようです。

本の中の1節を引用します。

教会にあれば神の威光を表し、宮殿にあれば王の権威を表し、市民の家庭にあれば暮らしを美しく彩るという、それぞれの場面で実用的な目的を持っていた美術は、美術館という新たに出現した美の「象牙の塔」ともいうべき権威ある施設に展示されることによって、そうした「用途」から切り離されてしまい、美術品それ自体の持つ色や形の美しさや細工の巧さだけを「鑑賞」される対象になってしまったのです。

18世紀終わりのフランス革命により、王室美術が一般市民に公開された。しかし、王室美術はそれまで一般市民が見る機会が無かったので、絵を見てもその作品を理解することが出来なかった。その施設が美術館となり、美術品はそれまでの実用的な機能を放棄し、美術館に飾られることを最終のゴールとして制作されるようになったとのことです。

ピカソが『アヴィニョンの娘たち』を描いた頃について書かれた1節を紹介します。

前述の通り、この作品に取り組んだ頃にはピカソは当面の生活の心配はありませんでした。そのせいもあって、画面には、学者が学会で新しい学説を発表する時のような気負いと先鋭性がみなぎっています。いわば、今後の絵画はいかにあるべきかという課題に対するピカソ理論の発表のようなものですから、学会論文と同じで素人に理解できないのは、むしろ当然でさえあったのです。

おそらく、この時のピカソのとって素人の理解などは眼中になかったでしょう。画商や批評家といった専門家に対して、絵画の未来を担う「前衛」としてピカソ自身の立場を知らしめ、ゆくゆくは美術館に入ってしかるべき芸術の担い手としての認知を確立することの方が、はるかに大切だったからです。

 

色んな立場の方の意見を紹介してきましたが、最後に自分の意見を述べて今回の記事を終わろうと思います。

まず、「10本映画を観て10本楽しめる人と3本楽しめる人だったら10本楽しめる方がお得なんじゃないだろうか?」という自分が提示した問いについては、「確かにそう」だと思います。単純に受け手としてより多くのものを楽しもうと思うのならば、楽しいと思えるハードルを低くして作品を鑑賞する方がいいと思います。ただ、僕は宇多丸さんの言うところのうるせぇ映画好きなんだと思います。そして、作り手という立場で考えるのならばそういうスタンスで見ることが必然だとも思います。冨樫義博先生があえてつまらない映画を見て、自分だったらどうやって面白くするかを考えていたように。ただ、その「面白さ」の評価基準を他人にまかせてしまうのは良くないと思います。自分の中の「面白さ」の基準を明確にしていくことが自身の作品作りに活きると思うからです。

次に作り手としてどういった作品を誰に向けて作るのかということについてです。前述したように今の僕の気持ちとしては、大衆向けの作品を作りたいという気持ちが強いです。ただし、スピードワゴン小沢さんの言うように、「これがウケそうだから」とか「流行っているから」という理由で作るのはリスキーかなと思います。それよりも「これが好きだから」、「これがやりたいから」という理由で作品を作っていきたいと思っています。なぜなら、その方が作品に強度があると思うからです。

だからと言って、「分かる人だけが分かる」作品が良くないとも思いません。むしろこれからの時代はそういった作品を作るべきなのかもしれません。単純に人口が減って、漫画というメディアが衰退していった時に、「大衆向け作品」を作ったところでその母数が少ないからです。それよりも、マニアックな作品であっても一定数のファンを獲得することの方が重要かもしれません。そうなった時に従来通りのシステムではうまく回らなくなるかもしれません。つまり、漫画家であれば、雑誌に載って原稿料をもらい、単行本を出して印税をもらうというシステムです。それよりももっとダイレクトに読者とつながるべきかもしれません。その手段は、同人誌かもしれないし、「note」などのメディアかもしれません。時代の波についていけるように常にアンテナを張っていたいと思います。


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