童貞という物語


物語とは

物語って何だろうか?

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僕は大学が芸術系だった。いわゆる美大ではなかったけれど幅広くコンテンツ制作について学んだ。授業の中のひとつにシナリオについて学ぶ授業があった。講師は映画監督であり脚本家の三宅隆太さんだ。たまにTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」にゲスト出演されたりしているのでそっちで知ってる方もいるかもしれない。独特の優しい語り口の方だ。三宅さんの授業の中で印象的なセリフがある。

「物語は旅だ!」

「主人公にはある目指すべきゴールがある。その過程でいくつかの障害があり、やがてそれを乗り越え主人公は成長、変化する。」シンプルに言えば、物語はそういう構造になっている。目指すべきゴールも障害も、大きい方が物語はより盛り上がる。『ワンピース』であれば目指すべきゴールは海賊王だ。障害は、そこに立ちはだかる強大な敵達。人は何かしら目的を持って生きていて、何かしらの壁や障害と戦って生きていると考えれば、人生そのものが物語と言えるかもしれない。

先日、漫画家の古泉智浩先生原作の映画『チェリー・ボーイズ』を観てきた。田舎でくすぶっている25歳童貞の3人組が自らの状況を打破するべく立ち上がる物語だ。童貞にとって目指すべきゴールは何か?ズバリ「ヤること」だろう。

「ヤらなきゃ俺たちクズのままなんだっ!」

と主人公は叫ぶ。メチェクチャな論理だけど、その気持ちは痛いほど分かる。セックスをすれば違う自分になれるんじゃないか…?別の世界が待っているんじゃないか…?そんな感覚。一般人にとってそれが普通であっても童貞には果てしなく遠いゴールだ。そしてゴールに辿り着くためにはいくつもの壁を乗り越えなければならない。

僕がいわゆる童貞物が好きな理由は、そこにある。自分自身がそうだからシンパシーを感じるというのももちろんあるけれど、主人公の動機がはっきりしていて、障害も多いから物語として面白い(そうでないものももちろんあるけれど)。

童貞三人組と言えば、僕が好きな映画に『スーパーバッド 童貞ウォーズ』というアメリカ映画がある。あらすじを言えば、高校の卒業パーティーで好きな子とエッチするために、偽IDを使って酒を調達しようとする話だ。一見バカバカしいけれど、彼らにとってはそれが全てで、一生懸命だから応援したくなる。未見の方は是非見てみて欲しい(NETFLIXにもある)。

漫画で言えば、やっぱり『ボーイズ・オン・ザ・ラン』が好きだ。あとは『モテキ』、『赤灯えれじい』など。『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は『アイアムアヒーロー』で知られる花沢健吾先生の作品だ。銀杏BOYZの峯田和伸主演で映画化もされている。主人公はいわゆる非モテの田西敏行27歳。玩具メーカーの営業で秋葉原を担当している。彼は同じ会社の後輩の植村ちはるに恋をしていた。ライバル会社営業の青山のアドバイスを受けて徐々に距離を近づけていくが…?というお話。
このちはるちゃんがめちゃくちゃ可愛い。黒髪ショートの丸顔で、ちょっとふっくらしていて正に僕のタイプ!って訳で初めてこの漫画を読んだ時、主人公にシンクロしまくってのめり込んで読んだ思い出がある。

花沢先生のすごさは、不器用でダサくてどうしようもないヤツなのにどこか愛嬌があって、「あぁこのキャラクターをずっと見続けたい」と思わる力だと思う。それは多分主人公がやり方は間違っているかもしれないけれど、好きな人のために一生懸命でいつだって本気だからだと思う。物語は意外な方向に展開していくのだけど、やっぱり僕はちはるちゃんが好きだ…!こちらも是非読んでみて欲しい。

ところで花沢先生は童貞についてどう思っているんだろう…?プロインタビュアーの吉田豪さんの著書に『人間コク宝 まんが道』という本がある。モテなかった青春時代に童貞をこじらせてしまった漫画家を中心にインタビューをまとめたものだ。その中の花沢先生のコメント。

いやあ、だから僕は正直言うと、みうらじゅんさんとか伊集院さんの「童貞を笑い飛ばそう」的な、ああいうのはダメなんですよ。ホントの童貞はそれすら……たぶんモテる童貞とモテない童貞の違いというか……。僕の場合、本当に先行き不安な童貞だったし、どこに行っても童貞じゃないかって思われるっていう、ゴールが見えない童貞にとっては、あれはホントに「ふざけるな!」なんですよ。

物語とリアリティ

物語について話を戻したい。

僕は僕自身の経験や体験を面白く伝える自身がある。それが『僕に彼女が出来るまで』だ。逆に言うとフィクションを面白く描けるか?と言われればちょっと自信がない。僕にとって物語は、リアリティがあるかが重要だ。自分の経験ならば100%リアルだから問題は無い。けれどフィクションはそうではない。想像の余地が入り込む。それをどれだけ許容するかが難しい。

『スリー・ビルボード』という映画を最近観た。アカデミー賞最有力との呼び声も高い。舞台はアメリカ ミズーリ州の田舎町。さびれた道路脇に長年使用されていない看板があった。娘をレイプされた上に殺された主人公のミルドレッドは、捜査が進展しないことに抗議するためその看板に「レイプされて死亡」「なぜ? ウィロビー署長」「犯人逮捕はまだ?」というメッセージを掲げた。そのことが町全体を巻き込む騒動に発展していく。

確かに映画はめちゃくちゃ面白い。予期せぬ展開の連続で飽きる暇がない。その一方で、「レイプされて殺された娘を持つ母親の気持ちって本当に分かるのかな?」
というマジレスをしてしまう自分もいた。自分にとって想像の域を超えてしまっているからだ。

僕は北野武監督を尊敬している。北野監督と言えばヤクザ映画だ。僕にはヤクザの気持ちは分からないし、暴力を与えたこともされたこともない(友達と喧嘩したり、親にゲンコツされた程度ならある)。北野監督は浅草育ちで幼い頃からいわゆる「その筋の人達」がたくさんいて暴力を身近に感じていたそうだ。だからこそ暴力の痛みや怖さを知っていてリアリティのある表現が出来るのだと言う。

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テーマやメッセージは必要か問題

作品を作る上で果たして本当にテーマは必要なのだろうか?そんなことをずっと考えていたことがある。それを漫画にしたのが『一馬先輩と僕』だ。

作品の中で僕なりの答えを出している。『一馬先輩と僕』は『俺本~佐藤ダイン作品集~』の中に収録されている。


漫画の教則本を見ると、大抵は「まず作品のテーマを決めて、それが伝わるクライマックスにしよう!」と書いてある。
確かに「何を言いたいのか分からない」よりも「この作品はこういうことを言いたかったんだな」と分かった方が良いとは思う。

ではなぜ、漫画というメディアを通す必要があるのだろうか?漫画は制作するのに時間がかかる。メッセージを読み違えられる可能性もある。Twitterでお手軽に言いたいことを言ったほうが、速く、ダイレクトに伝わるのではないか?

僕がシナリオを勉強をした時に読んだ本で『新版 シナリオの基礎技術』という本がある。シナリオを書く上での技術を体系的に学ぶことが出来る良書である。その中の1節を紹介したい。

「戦争は罪悪である」という作者の主張があるとします。これだけではドラマになりません。もし、この主張を訴えたければ、プラカードに「戦争は罪悪である」と書いてかついでいればいいのです。それは別に芸術という表現を借りなくても済むことです。私たちは、シナリオライターとして芸術化しなければなりません。自分の主張をただプラカードで見せるのではなくして、感動させなくてはいけないのです。

当時ドワンゴ会長という立場でありながらスタジオジブリに入社し、そこでの経験を元に書かかれた『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』という本がある。IT業界の川上さんの立場から見た「コンテンツ論」をまとめたものである。

「コンテンツは現実の模倣である」という前置きをした上で次のようなことを書いている。

またアリストテレスは、人間がなぜコンテンツをつくるのか( 再現をするのか)ということについても説明しています。彼はその理由を二つ挙げていますが、ここではひとつめを紹介しましょう。

(1)まず、再現(模倣)することは、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である。しかも人間は、もっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で、他の動物と異なる。

なるほど。 アリストテレスはコンテンツが生まれた原因について、「再現( 模倣)」は本能であり、人は再現することを喜ぶからだと分析しています。

まとめると、「人は現実の再現としてコンテンツ(物語)を消費する。そこにドラマがあることで作者の主張が感動と共に観客(読者)に伝わる。」ということになるだろうか。しかしながらそもそも作者の主張を作品に込めるべきかということについては疑問が残る。

ここで、再び北野監督に登場してもらいたい。北野監督が自身の作品の脚本のについて語った『物語』という本がある。その中の1節。

(略)そんなに難しいことじゃないんだよ、ストーリーを考えるっていうのは。だから、この映画で何を言いたいかっていうのは、評論家が言うべきであって、作ってるほうは、そんなのはどうでもいいんだよ。『ランボー』とか、ベトナムを舞台にした戦争映画とか、ああいうのだって、別にメッセージなんかないわけ。単にアクションを見せたいだけなのに、「今の政治不安と……」なんて言わなきゃいけないじゃない。そんなの、宣伝部が言やあいいんだよ。

北野監督はエンターテイメントとしての「暴力」を用いるが、暴力を肯定しているわけではない。だからこそ、暴力を用いた者(主人公を含む)には「死」が待っている。僕はこの本を読んだ時、頭でっかちになっていた気持ちがスッと軽くなった気がした。

物語は人を傷つける?

話を戻して、物語から現実世界を学ぶとすれば、例えば暴力的なものであるとか、倫理的に問題があるコンテンツはどう捉えれば良いのだろうか?

小説家の筒井康隆さんの『大いなる助走』に影響されたのではないかとされる殺人事件について、雑誌の対談で筒井さんは以下のような発言をしている。

ええ、確かに今、一般社会に対して覆い隠されているものの真相というのは、たいてい悪です、 良識人にとっては。それを想像できない人間に対して、僕は特に想像力豊じゃないけれども、 ただ僕は人間が悪いですからね(笑)。悪い人間だから極端に悪いところまで想像するわけです。 で、それを書く。 だけど僕程度の悪人というのはたかが知れているわけで、僕より悪いやつはいっぱいいる。 僕が考えた程度の悪いことは、すでに実際にやってるやつはいっぱいいるわけです。それがたまたま表に出てきた場合に、言い当てていると言うことになるわけだし、 前もって書いてしまった場合は、それはやっぱり真実の一部でもあるわけだから、 こどもが読めば「ああ世の中の真相はこうか」と思っちゃいますよ。だから、何も知らない人間が、そういった一部の真相を知ったために悪くなったり、 ひねくれたり、小利口になったりということはあるわけです。

(中略)

ところがやっぱり潜在している毒を触発したり、まだ世の中をよく知らないこどもを、 現実とはこういうものかと、ズル賢くする効果というのは明らかにある。 僕自身だってほかの作家と同じように、あまり世の中のことを知らないです、裏の裏なんてことは。 ただ違う点は、悪いことをいくらでも想像できるという想像力の問題です。いっそのこと、トコトン悪いほうへ悪いほうへ想像力を働かしてしまえば、 どんな本を読んでも、それは本人にとって毒にならないわけです。要するに想像力さえ翔ばせば、こどもだって悪くはならんと僕は思います。 ただ、今、こどもの心理が教育問題やなんかでだいぶ歪められているから、そこへ変な方向へ想像力もっていかれたら絶望しちゃいますよ、 世の中こんなものだというふうに。 それがかわいそうなんです。
参照:文学と犯罪-筒井康隆対談

確かに悪い影響を与えることもある。しかしそれは想像力の問題である。ということだろう。

大変今更ながら、『火花』を読んだ。ご存知、お笑いコンビであるピースの又吉直樹さんの小説である。売れない芸人の主人公徳永が、奇想天外な先輩神谷に出会い、笑いとは何かを問い続ける物語だ。何かを目指していたり、物を作る人間ならより感情移入できると思う。僕は主人公の徳永に感情移入したし、先輩芸人は脳内で勝手に前述の『一馬先輩と僕』の一馬先輩を想像しながら読んだ。その中の1節を紹介したい。

それに僕と神谷さんでは表現の幅に大きな差があった。神谷さんは面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟を持っていた。一方、僕は自分の発言が誤解を招き誰かを傷つけてしまうことを恐れていた。

神谷さんに、そんな制限はない。周囲を憚らずに下ネタを言ってやったというアウトローとしての行為を面白いと思っているのではない。あくまでも、面白いことを選択する途中に猥褻な現象があっただけなのだから、それを排除する必要を微塵も感じていないのだ。そんな神谷さんとは対照的に、僕には主題が他にあり、下ネタがただの一要素に過ぎない局面でも、それを排除する傾向にあった。つまり、自分が描きたい世界があったとしても露骨な性表現が途中にある場合、そこに辿り着くことを断念してきた。神谷さんは、そんな僕の傾向を見抜き、不真面目だと言った。不良だとも言った。面白いかどうか以外の尺度に捉われるなというのは神谷さんの一貫した考え方であった。面白い下ネタを避ける時、僕は面白い人間でいようとする意識よりも、せこくない人間であろうとする意識の方が勝っているのだ。神谷さんは、その部分を不良だと言った。だからこそ、神谷さんの前でだけは僕も淫猥な表現を用いることに抵抗が少なかった。

面白さこそが一番重要。そうシンプルに考えられたら最強かもしれない。物語の後半、先輩の神谷がお笑いに行き詰まり、自分の体のある部分を整形する。それに対する徳永のセリフ。

「そうですよね。神谷さんには一切そんなつもりがなくても、そういう問題を抱えている本人とか、家族とか、友人が存在していることを、僕達は知ってるでしょう。全員、神谷さんみたいな人ばかりやったら、もしかしたら何の問題もないかもしれません。あるいは、神谷さんが純粋な気持ちで女性になりたいのであれば何の問題もないです。でも、そうじゃないでしょう。そういう人を馬鹿にする変な人がいるってことを僕達は、世間の人達は知ってるんですよ。神谷さんのことを知らない人は神谷さんを、そういう人と思うかもしれませんよ。神谷さんを知る方法が他にないんですから。判断基準の最初に、その行為が来るんやから。神谷さんに悪気がないのはわかってます。でも僕達は世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです」

爆笑問題の太田さんやウーマンラッシュアワーの村本さんも、「笑いは必ず誰かを傷つける」という主旨の発言をしている。僕も童貞をネタにしている訳で、誰かを傷つけているかもしれない。作り手としては、誰かを傷つける可能性があることは想定するべきだと思うし(かといってそれを気にし過ぎて萎縮するのも良くない)、受け手としては、言葉尻や表面的なメッセージではなく、真意を読み取るリテラシーを身に付けるべきだと思う。ところで「童貞を殺す服」ってどうも腑に落ちない…。童貞以外もみんな好きだろっ!!


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